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6. シンガポール

聡子は自宅に帰ると、今里にいわれたように、「外側」から「内側」を変えてみることを試みた。

周囲の目につく「混沌」を整え、「内なるもの」を整える。真っ先にやらなければならないことは、ゴミ溜めのようになった部屋をキレイにすることだ。

聡子は、不要なものをどんどんゴミ袋に詰めた。酒の空き瓶や新聞紙をまとめて玄関先に出した。冷蔵庫の中の賞味期限の切れた物を全て廃棄した。

台所のシンクに水浸しのままの皿や調理器具をきれいに拭いて戻した。ベッドのシーツをキレイなものに取り替えた。着なくなった洋服も最低限のものさえあればいいと整理した。

掃除機をかけ、床をていねいに雑巾がけし、窓を拭いた。

ひと通り終えると、大晦日でもこれほど掃除をしたことはないと聡子は額の汗を拭った。

今、自分の周囲にあるものは整然として、新たな命を吹き込まれたかのように輝きを放っている。

新たな環境が、新たな想いを形成していく。

身の回りをキレイに整えると、思いの他、気分が軽くなった。

これは外側からのアプローチでもたらされた変化だ。

いくら想いで、内側を変えようと思ってもやはりこうはいかない。

内側を変えるには、外側を変えることから入ることのほうが案外容易だということが分かった。

なぜ、こんな簡単なことに今まで気づかなかったのだろうかと聡子は思った。


それから、聡子は1日の大半を掃除をすることに費やした。

朝早く起き、近くの公園で日の光を仰ぎ、家に帰ると、シャワーを浴び、部屋の中の目につくものを全てキレイに磨いて整えた。

不思議なもので、環境を整えると、心もそれに同調せざるを得なくなる。身の周りをキレイにすると自然に思考の乱れも整然としたものに変わっていくかのようだ。

うさ晴らしで、以前のように酒に頼ることもなくなった。

毎日クタクタになるまで身体を動かすため、睡眠薬の必要もなく、ぐっすり眠れるようになった。

聡子は食事も変えた。玄米や雑穀米を摂り、野菜・果物をできるだけ多く食べるようにした。

時々、断食もした。心身に巣食っていたがらくたがすっきり整理できたような気がした。


これから、一体何をすればいいのだろう。

絶食中、聡子はそのことをよく考えた。頭に浮かぶのは、生前の美菜との思い出ばかりだった。

そういえば、「キレイになりたい」と美菜は思い詰めるように日記に書いていた。

聡子は、美菜の日記にあったなぐり書きを思い出した。

見開きのページにびっしりと書き込まれていた「キレイになりたい」という言葉。

「なぜ、みんなイジメるの・・・」という言葉もそこにあった。

美菜が学校でイジメにあっていた・・・まさか、そんなことが。

確かに、体毛が濃いと気にして泣いていたこともあった。

思春期はホルモンのアンバランスで一時的に濃くなることがあるの。お母さにもヒゲが生えているってからかわれた時期があったのよ。でも放っておけばだんだん薄くなるものなの。

そういって、何度か美菜をなだめたこともあった。

もしかして・・そのことを苦にしてカミソリで・・・まさか、そんな・・・あり得ないと聡子は思った。


美菜の自殺は私と國男に責任がある。美菜を追い詰めたのは私と夫。

でも、美菜への償いが何かできるとしたら、美菜が望んでいたことをやってあげること。

それしかないと聡子は思った。


そういえば、今里はシンガポールでエステサロンを経営しているといっていた。

別れ際、機会があればまたお会いしましょうと好意的な言葉をかけてくれた。

聡子はバッグの中から今里の名刺を探した。立ち直るきっかけを与えてくれた礼も言いたかった。エステティシャンとしての技能は持ちあわせてはいないが、もし、今里のエステで何かできることがあれば手伝いたいと思った。


今里さんのおっしゃる通り、「外側から変える」ことをやってみました。これが「気を変える」ということなんですね。外側の乱れた気を変えることで内側の気も整いました。内側からのアプローチより外側からのアプローチのほうがとっても簡単ですね。瞑想なんかより、身の回りをキレイに掃除したほうがよっぽど気が晴れます。

そういった内容のことをメールに書いた。メールの最後に、私のような人間でも何かお役に立てるようなお仕事があれば、お手伝いしたい、と付け加えた。

すぐに、今里から返信があった。

メールには、「喜んで、お待ちしております。どうぞ、いらしてください」とあった。


         ☆☆☆


5月の乾季のシンガポールは穏やかな日差しが溢れていた。もうじき強烈な光が降り注ぐようになる。その前のほんのひとときの恵みのような心地よい光だ。空港からタクシーでオーチャードロードを通る間、聡子は窓の外の賑わいをぼんやりと眺めた。

向こうで北京語のざわめきが聞こえたかと思うと、すぐ手前では英語が飛び交ってる。雑踏の中、整然と歩く日本人らしき一団の姿も見える。


ホテルに着くと、聡子は2時間ほど横になった。

フライトの疲れが癒えると、夕方、市内を散策した。街は思ったより清潔だった。多民族国家のシンガポールは全てに統制が効いていた。この国の公共の場でのツバ吐きや喫煙は罰金の対象となる。もちろんゴミのポイ捨てもだ。多民族の集合国家ではなによりもルールが優先される。

聡子は屋台がたくさん集まったホーカーズに立ち寄ると、ビリヤーニと麺料理のラクサを注文し、お腹を満たした。少し辛味が効いていたが、悪くはなかった。

もしかしたらここにしばらく居ることになるかも知れない。スパイスの効いたビリヤーニを頬ばりながらふと思った。食事中も、誰も聡子に目を止めるものはいなかった。まるで夕刻の食事にフラリと立ち寄った現地の主婦でもあるかのように、聡子はそこに違和感なくおさまっていた。


2日目に聡子は今里を尋ねた。

今里のサロンはカンニングライズ通りから少し入った、豊かな木々が生い茂った小高い坂の上にあった。光に映えた緑や赤の植物の豊かな色彩が辺りを埋めつくしていた。

サロンは広大な敷地の中にあった。ラッフルズ・ホテルを模したような2階建ての白亜の建築物で、その奥にはそれとは対照的なコロニアル様式の2棟の平屋のバンガローが木々の間にひっそりと隠れるように建っていた。

敷地内の手入れの行き届いた庭園には色とりどりの花々が咲き乱れ芳しい臭いを放っていた。ときおり鳥のさえずりも聞こえてきた。ヨガや気功で身体を癒やす人々も見かけた。心地良い気が辺り一帯に流れていた。

聡子が到着すると、今里が玄関先で出迎えた。「お疲れになったでしょう」と笑みをたたえ聡子の手を握った。

今里は日本で会った時より、さらに日に焼けて精悍に見えた。63歳という年齢の割にはしなやかな物腰で、白に花柄のカシミヤの薄手のシャツの上からも余計な贅肉は見受けられなかった。

中に入ると、照明を落としたホテルのような広いロビーの正面に受付のカウンターがあった。そこには以前断酒会の施設で見かけた日本人の秘書らしき女性がいて、聡子に会釈をした。

館内は天井が高く、大理石の床の上には等間隔に大小の彫像が置かれ、エステというよりむしろ高級ホテルといった風情だった。荘厳で洗練された館内の趣に聡子は圧倒された。

今里はロビーに主だったスタッフを集めると、「日本から来たトップエステティシャンの澤木さんです」といって、聡子を紹介した。

今里の言葉に聡子は驚いた。え、今なんていったの?トップエステティシャン。そんな、まさか。私は、自分の化粧すら満足にできやしないのに。 スタッフはほとんどがアジア系で、彼らの好奇の目が一斉に聡子に注がれた。

「いえ、あの、私は、そんな」聡子はただうろたえるばかりだった。そんな聡子を横目で見ながら、「将来のね」と今里は笑みを浮かべた。
今里の言葉を周りのスタッフは真剣に聞いていた。

今里がそういうのだから、そうに違いない、というなまなざしで聡子を見つめていた。

ここにいるのは、今里に「見出された者」ばかり、みんな最初はただのエステティシャンだった。でも、そのうち、あなたも自分の「力」に気づくようになる。そう、無言で聡子に話しかけているかのようだった。

聡子は今里と雇用契約を交わすと、一旦、日本に帰国した。六甲の家は慰謝料として國男から貰い受けていた。その家の処分や身辺整理をして、心機一転、新天地で出直そうと思った。

もちろん六甲にも日本にも未練はあった。が、エステティシャンを志したからにはやるしかない。美菜のためにも、と決めたことだ。全く何も無いところからのスタートで不安だったが、断酒会のベンチに座っていた時、今里がかけてくれた「あなたには、そういう力がある」という言葉。その言葉で迷いも吹っ切れた。

シンガポールでの聡子の住まいは、サロンから歩いて10分ほどの、大通りから少し脇に入った所にある小奇麗なアパートの一室が与えられた。時折、近所の子供たちの遊び声が辺りに響いた。

六甲の邸宅と比べると6畳ほどの情けなくなるほど狭いスペースだったが、見習いエステティシャンなのだ、贅沢はいってはいられない、と聡子は自らに言い聞かせた。


         ☆☆☆


今里ビューティーサロンは、30年ほど前に今里が開業したエステサロンで、当初は気功のレッスンとマッサージのスパを主体に運営していた。

今里は30代半ばに株で財を成し、それを元手にシンガポールに渡り、サロンを開設した。税制の優遇で日本のように市民税や住民税を取られることもない。起業するにして手厚い優遇措置が得られた。

なにより、多宗教、多民族の交わる混沌とした世界に惹かれた。混乱と猥雑のカオスの中からしか見えない物もある。シンガポールという地で、好奇心旺盛な若い今里は持ち前の度胸で水を得た魚のように裁量を発揮した。

サロンは本部のシンガポール以外にニューヨークとロンドンにあった。

本部スタッフは30名ほどで、日本人スタッフはいつか聡子が断酒会の施設で見かけた秘書と彼女の夫の2人だけで、後は、ほぼ半数が現地スタッフで、中国や台湾、インド、アメリカ、フランスと国際色豊かだった。サロンでの日々の会話は英語でおこなわれた。

サロンには美容とリラクゼーションのためのありとあらゆるコースと設備が揃っていた。1階は10室あり、中国式マッサージにアロマテラピー、アーユルヴェーダ、リフレクソロジー、漢方などでヒーリングの施術をした。さらにヨガやピラティス、食事指導などの講習も行っていた。

2階は1階とは全く様相が変わっていた。脂肪吸引や脱毛、さらに整形まで、最新の機器を導入しての施術が行われていた。スタッフの間では、1階が「伝統の部屋」、2階が「近代の部屋」と呼ばれていた。



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幸せの脱毛士 / 結城直矢

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